他多数
時は細川政権。日本が変わると夢見た15歳。とりわけ自民党幹事長を辞し、55年体制を崩壊に導いた小沢一郎は輝いていた。
新生党の原動力とは何かと追及していく中で田中角栄に行きつく。愛読書は早坂茂三(田中角栄元秘書)。日本の根幹となる政策を次々に実現した角栄さんの政治手腕に共鳴。ちなみに住宅ローンや今話題のガソリン税なども全て角栄さんの仕事。
そんな田中角栄が逝去。高校一年の私は、親に頼み込んで旅費を出して貰い、青山葬儀場での葬儀に一人参列。生まれて初めての上京でした。自民党葬で喪主は橋本龍太郎さん。なぜか喪主相手に握手を求めて握手をしたという、葬儀でありえない不作法を。
その後、国会前で守衛さんに写真を撮ってもらい「いずれここで働く」と誓うが、3年後に叶うとは当時知る由もなく。
政治の世界に飛び込むと息巻いて東京の専修大学に入学。
早稲田の雄弁会に憧れ、大学唯一の政治サークル「政治研究会」に入部。まさかの左翼過激派サークルだとも知らず。情報漏洩を極度に恐れ名簿を作るのを嫌がったり、一体何歳なんだろうという先輩がいたり、謎が多い団体だったが、新歓合宿で日米軍事演習を漁船で阻止しに行くという謎行事への参加を求められた。
その時点でおかしな団体であることに気づいて、仲間を引き連れ退会。思想的にも衝突が多かったこともあるが、「デモや過激な行動では社会は変わらない」と持論をぶち、反乱分子認定をされた。
中核派だの革マル派だの、襲われるだの、恐ろしい会話が飛び交っていた世間知らずの大学一年の春。
政治は中央だと思って東京に来たが、ご縁もないまま半年。過激派サークルの一年生を引き連れ脱会後、自主勉強会を開催していたが夢に近づくこともなく悶々とした夏休みのある日、学校の便所に張られた衆院議員ボランティア募集のビラに目が留まり、松沢事務所の門を叩く。
当時は自民を割って出た新生党に共鳴し、かつ松下政経塾全盛期で、両方に出自をもつ唯一の代議士が松沢さんだったこともあり一気に引き込まれる。
事務所に入るや否や、住宅地図を渡され「このエリアのお宅、全て回ってきて」と、ほとんど何の指導もないまま、戸別訪問をする毎日が始まる。一日ノルマ300件。ここが私の政治の原点だ。ちなみに、800枚貼られたボランティア募集のチラシで現れたのは私一人。最初につけられたあだ名が「800分の1」だったことは余り知られていない。
松沢代議士との決別。松沢さんとは実は2年足らずで決別している。新進党が解党し、小政党に分裂。松沢さんは奥田敬和先生について太陽党という時限政党へ。新進党の政策は自由党が引き継いだ。
一時的な時限政党の太陽党には理念や政策がなく、理念なき政党にはついていけないと、当時の私にとって絶縁覚悟の大決断の思いで代議士に仁義を切りに行くもあっけないほどあっさり了承。「村山の信じる道を行けばいいよ」。
絶縁覚悟だったがその後も関係は続き、私が政治家へ初挑戦する時からずっと助けて貰っています。たった一年半ほどの宮仕えでしたが、私の原点であり、今でも政治の道をつけてもらったかけがえのない恩師です。ただし、私の結婚での挨拶は長すぎました。
松沢事務所を辞めたあと、とにかく選挙マシーンとして全国津々浦々の選挙応援に行くことに。
大学4年間で選挙ノウハウを全て学びきると息巻いていた私はフットワークも軽く、秘書さん達からは使い勝手がよかったんでしょう。山口県へ一か月、岩手県へ一か月、全国遊説に2か月とまさに飛び回っていました。おかげで大学の単位は随分苦しかった記憶があります。
こうして徐々に広がるネットワークの中で、無所属の20代議員達と多く出会います。地盤看板カバンなし。マイク一本からしがらみなき改革を訴える姿はとても気持ちよく、魅力的でした。
建前と本音を使い分ける国会議員に嫌気がさしていたこともあり、地方への思いが日に日に強くなっていくのでした。郷里に命をかける。20歳の時に決めました。そして被選挙権を得る25歳で立候補するぞと誓いました。
就職は議員秘書かなと思っていた矢先、小沢一郎事務所のこわーい先輩から声がかかります。「小沢の書生やらないか。小沢事務所なんか入りたくても入れないんだぞ。」
確かに当時の小沢事務所は国会議員の事務所の中で別格でした。二つ返事で了承したのですが、ひとつの条件を提示されました。「25歳の立候補はダメだ。10年は修行しろ。」
この条件がずっと頭をよぎります。先輩議員に相談したら「自分の目標捨ててまで10年も小沢事務所で何学ぶんだ?」と問われ、答えられなくなってしまいます。
年の瀬押し迫る12月。意を決し、頭を丸めて「やっぱり辞めます」とチュリス赤坂にあった小沢事務所を訪れ、筆頭秘書だった高橋さんに詫びに。とにかく怒られ、先輩からは「顔に泥を塗りやがって絶対許さん」とこっぴどくやられました。自業自得ですね。でも、その先輩が昨年の市長選では一番に心配をして電話をくれました。のちの石川知裕元衆院議員(立民)です。
大学卒業から被選挙権の25歳まで3年あります。何かしないといけません。民間で使い物にならない人間が選挙に出ては有権者に失礼だろうということで、民間で有益な人材になろうと思いました。
有益の基準は何かと考えたとき、転職市場でバリューが高い人材になれば、一定優秀な人材と呼ばれるのではないかと、当時のない頭で考えたわけです。
当時の日経ビジネスの特集で転職市場でバリューが高い会社が紹介されていました。野村證券、IBM、リクルートでした。ということは、この三社に入って社内で優秀だと言われればバリューの高い人材と言えるだろうと思い、リクルートに入社をすることになりました。
ちなみに、リクルートを強く薦めて下さったのは、リクルート出身の変人議員として有名だった今村たけし西宮市議(その後西宮市長)でした。
当時のリクルートは昭和の古き良き慣習が色濃く残るブラック企業。20時を過ぎても誰も帰らないのです。当時の私にとって夜中まで働くのは選挙の時だけです。入社一日目の感想は「この会社、毎日が選挙事務所やないか」です。
立候補まで二年。期限付きの自分にとって二年で結果を出さねばならないプレッシャーが後押ししてあっという間に戸締り担当になります。
入社当初は京都市の西院に住んでいましたが、終電に乗れないという理由で阪急淡路に転居。毎日終電ギリギリまで会社で仕事、土日もほぼ出勤という狂った勤務を二年間続けました。ハードワークな議員生活ですが、議員になってからは肉体的にも楽になったと思えるのはリクルートのおかげです。
リクルートに入社して担当したのは週刊住宅情報(現スーモ)の戸建て営業。毎日街の工務店を周り、広告を取るのが仕事でした。とにかく広告費が高いことで有名で、私の担当エリアは広告効果が非常に厳しい兵庫県西部エリアでした。
お客様に信頼され、自分を買ってもらうにはどうするか、悪戦苦闘の日々でしたが、成功体験を積ませてくれる会社に出会い営業のイロハをお客様に叩き込まれました。
結果的には8期(四半期)所属し、うち7期で何かしらの社内表彰を頂いたことは大きな自信に繋がりました。まあ、表彰というお金をかけずにモチベーションを上げるというのが得意だったリクルートならではだったのかもしれません。(笑)
ただ、当時かわいがってくれたお客様第一号は、退職後もずっと政治家として応援し続けて下さり、結婚式では主賓としてご挨拶頂きました。ご縁を頂いた方が途切れずずっとお付き合い下さることが私の自慢です。
リクルートを退社し地元に戻った私ですが、誰より怒ったのは両親でした。「やっとまともになったと思ったらまた夢みたいなことゆうてから」と取り付く島もありません。応援どころか敵に回る勢いでした。
やむなく仲間を集めて、出町柳駅徒歩5分の古い連棟の一軒家を借り、小さな自宅兼事務所兼合宿所としてスタートしました。応援する人など皆無。朝は2時間駅に立ち、昼間は300軒お家を回り、ポスターを貼る日々。大学生の伊藤君は一人で50万枚近くポスティングをしてくれました。
そうこうするうちに、子供の時からよく知っている近所のおっちゃん、おばちゃんが手を差し伸べてくれるようになりました。「金はないんだろうけど、事務所がないのも困るやろ」と言って自分の画廊を提供してくれる方が現れだすと、親も知らんぷりできなくなり、選挙をやってくれるようになりました。
母はひたすら「村山祥栄の母です」と慣れない頭を下げ続け、一万軒近く門を叩いたと思います。さすがに申し訳なく思い、母にお礼を言うと帰ってきた言葉は「あんたのことで人生で初めてすいませんじゃなくお願いしますと頭を下げさせて貰ったわ」。
いかに親に苦労をかけ続けて生きてきたのか。あの一言は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
地獄の25歳。意気揚々と初当選をし、登庁しますと待っていたのは悲惨な議員生活でした。
そもそも無所属が存在した歴史がない京都市会では、無所属を想定していなかったため、無所属は議会運営そのものの蚊帳の外。部屋はない、議場での質問の機会もない、役所の説明もない、ないない尽くし。事務局もどう対処するのが正解かわからないのですから無理もありません。たった一人の無所属に加え、25歳の若造、一期目という三重苦を抱えて議員生活が始まりました。
部屋はさすがに早々に与えられた(3畳程度の窓なし納戸ですが)ものの、質問権もなければ、説明もない。最初は勝手がわからず、分厚い議案書を隅々まで読んでました。なんと大変な仕事だろうと。
そのうち、私以外は職員が説明に来ていることを知り、私のところにも説明に来てもらえるようお願いして改善されました。質問権については何度も何度も申し入れをしお願いをしましたが相手にされず。
悩んだ結果、地方自治法や規則を事細かに読み込むと、議員には質問権があることを理解します。弁護士と相談し、京都市議会相手に質問権行使のための裁判を起こすことを決意。その旨を議長に伝えると30分後には特例として議場での質問が認められました。たったこれだけのことに4年かかったのです。
最初の配属が交通水道委員会。最初の任期は交通局と水道局が中心でした。
当時は、緩やかな昭和の時代から行政の無駄遣いけしからんという流れが登場する時代でした。当然無駄のオンパレード。最初に目を付けたのが、交通局協力会というOB組織への無秩序な業務委託でした。
例えば、京都駅の売店やコインロッカーです。交通局が直接民間に貸し出せばいいものを、なぜか協力会に貸して、それを転貸するのです。OB会に無条件で金が落ちる仕組みです。それ以外にも燃料補給業務といってバスにガソリンを入れる仕事、事務所の清掃をする仕事、みんな入札なしで高単価で協力会へ委託していたのです。
とにかく公金チューチューのOB会に怒り心頭。かなり激しく交通局長とやりあいました。今ならパワハラかもしれません。(最も25歳の新人が60歳間際の交通局長を厳しく攻めるのがパワハラになるのかは謎ですが)最後、ブチ切れた局長は「OB食わせるのも我々の仕事だ」と思わず本音をポロリ。大変な問題になったのは言うまでもありません。
「無所属議員は仕事ができない」「会派に入れ」という多くの声に強く反発。「地方自治に国政政党の関与は不要。中央の意向を受けない地方独自の政治勢力も必要」という強烈な思いから無所属での活動を選択。しかし、それはいばらの道の連続だった。
誰にも相手にされない。各局に行っても議員と認識されない。質疑時間が少ない上に答弁は冷たい。信念を貫くのは難しくないが、このままでは結果の出ない4年間になり、投票した市民に申し訳が立たない。
そうして導き出した答えが圧倒的な調査と理論武装により政策で勝負をするということ。無所属という不利な立場を逆手に取り、無所属=自分にしか出来ないことをしようと決意。無所属の強みはしがらみがないこと。誰にも遠慮する必要がないので暴れに暴れた。
当初は「イキのよい若者がきたもんだ」ぐらいのものだったが、その若造が市役所をひっくり返すような事件を起こすことは誰も想像すらしなかったに違いない。
行革の推進に邁進していた議員3年目。突如ゴミ袋有料化の議案が登場する。「市民に負担を求めるなら徹底した行革をやってからだ!さぼり職員の一掃をすべし!」と当時の部長に詰め寄るも、「全くの事実誤認。そんな職員はいません」と一蹴。何も知らない若者だと思って舐められたもんだ。
頭に来た私は、その事実を掴むため、まち美化事務所に一か月間の張り込みを決行。毎日毎日パッカー車とにらめっこの日々を過ごす。さらに、内部に潜入し、さぼりの現場の決定的証拠を掴む。仮眠室、パチンコ台、筋トレ室、そして賭け事に勤しむ職員。一日2時間以上にわたる休憩時間。
全てを押さえて議会でぶち上げるも、当局は逃げの答弁を繰り返し時間切れ。議会での解決は不可能と判断した後の動きは早かった。
某テレビ局を引き連れ事務所に突撃。押し問答の末、怒号飛び交う事務所に監禁。組合は大騒ぎ、即副市長会議が開かれ、議会にも正式な抗議が。後日、報道も当日急遽放映中止という連絡が。
懲りずに議会での大暴露第二弾。無所属の暴走は止める者がいない。結局市長自ら仲裁に乗り出し、「村山議員の提案は全て飲む」という破格の条件を提示され、悪名高かったごみ行政は一気に改善に向かう。それ以降、行政の態度は一変、「無所属では仕事ができない」という声は聞こえなくなった。
ごみ行政の顛末をチラシにして配っていると、一本の電話が鳴る。チラシを読んだテレビ朝日のディレクターからだった。この顛末をニュースにしたいと。
最初は市長と矛を収めると約束したのを理由に断るも、議会で提示した資料は公開情報だから協力してほしいと強く要請され、出来る範囲での協力を約束。報道が決まったのだが、運悪く同時期に京都市職員の不祥事が連発。職員の覚せい剤使用多数、密売、暴力事件とありえない事件とごみ行政の顛末が重なり、一週間連続で放映された京都市特集が火を噴く。
市役所や議員事務所にテレビを見た市民からの苦情が殺到。鳴りやまぬ電話に受話器を上げていた部署もあったほど。止まぬ苦情に事態を重く見た京都市会は8月に不祥事撲滅のための臨時議会の開催を決定した。一か月の集中審議の末、同和行政における無試験採用が原因であることを認め、100項目以上の改革大綱を労働組合に図ることなく強行し、京都市の膿は一気に吐き出される契機となった。
議会は憔悴しきっていた。「そもそもなんでこんな大事になったんだ?」「そりゃ、あいつのせいやないか」随分恨み節を聞かされたが、それに反して、役所は着実にただ一人の無所属を丁寧に取り扱うようになってくれた。気づけば村山を知らない理事者はいなくなっていた。
おかげで二期目はトップ当選。役所の泳ぎ方にも慣れ、順風満帆な市議生活5年目に突如現れた暗雲。それは、次期市長選びだった。
昨年の不祥事から反市長の急先鋒のような存在になっていた私だが、いつまでも引退を表明しない桝本市長に業を煮やし、桝本市長の生みの親とも言うべき稲盛和夫(京セラ創業者・元京都商工会議会頭)に直談判するべく、サンガスタジアムに応援に来られていた稲盛さんを直撃。「今の桝本市政は評価に値するんですか。継続させるおつもりですか」若さとは怖いものです。人間のできた稲盛さんは暴走青年に対し丁寧に「2期目までは評価する。3期目は十分だとは言い難い。君の言いたいことはわかった。」と答えて下さった。
程なくして桝本市長が引退を表明。当時は不祥事の色が強かった時期、「不祥事を生み出した庁内の職員から市長を出すべからず」というのは党派を超えて若手議員の声だった。しかし、天の声とは凄いもので、突如門川教育長が後継指名される。若手議員達は唇を噛みしめながらも「今回ばかりはやむを得ない。今回は我慢やろ」と。悩みに悩み、一人で候補者を探したが見つかるはずもなく。
政治家とは青雲の志ではじめて、こうして長いものに巻かれる存在になるものなのだな、と思った途端、長いものに巻かれる政治家に何の意味があろうやと。政治家になったのは信念を貫くためではなかったかと。市民が選択肢を求めていることは言うまでもなかった。出した結論は、政治家として死すこと恐れるなかれ、己を殺してまで生き残る価値がどこにあろうや、自らの市長選出馬だった。
議員も5年やると、役所のどこに問題があるか見えてくる。京都市役所の病巣は同和行政との決別ができていないことだった。解放同盟の役員に気を使い、同和は大きな圧力団体として君臨していた。結果、同和行政の終結は言葉だけで、実態はずるずる続き、改革の妨げとなっていた。
これを断ち切るべく臨んだ議員は過去にもいたがいずれも役所の厚い壁に阻まれ、与党のベテラン議員ですらこじ開けられない聖域となっていた。また、それは逆差別の温床ともなり、誰も幸せにしない悪循環が続いていた。それでもなお、誰かがこじ開けねばならない重く大きな障害こそ、無所属の私の使命だろうと徹底的に同和行政を終結に向け調査を開始した。
暑い夏の最中、数千軒の同和地区内の市営住宅を一軒一軒周り、旧同和関連施設を順次視察をしていった。同行の職員は眉をひそめたがお構いなしに調査を続けた。同和関連施策をすべて洗い出し、現状を整理し改善提案を作る。スタッフとともに約3か月かかりっきりでまとめた調査報告書は、私の議員生活の中で最も大掛かりな調査だった。
同和裏行政が出版されたことを契機に、同和行政が京都市の最大の関心事となり、時期を同じくして、出馬した市長選では、3候補揃って「同和行政の終結」を公約の一番に掲げるという異例の事態となった。
世論喚起は成功した。当然私はその急先鋒。不祥事撲滅、同和行政終結、役所の解体的出直しを掲げて出馬をした。自公民VS共産VS私。後援会が全力で止めるのも聞かず、勝てもしない選挙へ突入していった。
不祥事や同和問題に怒れる市民に対し一定の受け皿、選択肢を与えたという意味で8万票という過分な票を頂くも結果は惨敗。頭を丸めて後援会の皆さんにお詫びした。申し訳ないと思う一方、同和行政が争点となる初めての選挙が展開され、誰が当選しても同和行政を終結させるという強いメッセージが発信されたことは政治的意義は大きかった。
事実、この選挙後当選した門川市長の下、同和行政は完全終結に至るのである。そしてその頃には、誹謗中傷も止み、町中のポスターが燃やされたり、事務所の周りに常時止まっていた車も姿を消し、平穏かつ貧乏な浪人生活が始まるのであった。30歳春、無職。
市長選から2年。翌年の市議選を控え新たな決断をする。地域政党京都党の結党。無所属一人の反乱は限界を迎えていた。政治は数の力。やはり仲間がいないことにはこれ以上大きな仕事は難しい。
そこで長年温めてきた、国政政党の色を持たない地域政党の結党を決意。当時は日本でもほとんど馴染みがなかったが、地方分権を進め、自主自立した都市をつくるにはこれしかないと決断し、私の理解者だった堀場雅夫氏(堀場製作所創業者)のもとを訪ねた。
地域政党の趣旨を説明して一言「君は何をゆうてるんや。この構想は30年前から私がゆうてきたことや。何を今更ゆうてるんや。」それで全てが決まった。「現場は君ら若者の仕事や、後ろはやる」堀場雅夫さんをはじめ、高木寿一元京都市副市長、村田晃嗣同志社大学学長、渡邉隆夫京都府中小企業振興連盟会長など京都の政官学財各界のメンバーで結党をすることになる。市民が中心になった京都初の地域政党だ。
ちなみに、当時既に存在していた地域政党は嘉田由紀子滋賀県知事率いる対話の会、同時期に結党されたのが大阪維新の会である。地域政党黎明期である。
地域政党結党の最初の仕事は議員定数の削減だった。多すぎる京都市議を減らすべく京都市議会の議長に申し入れも行うも受理されず。やむなく、市民アンケートを実施し、市民の大半が議員定数削減に肯定的だという確証を得た後、選挙に次ぐ民意集約の制度「直接請求」という制度を使い、議員定数条例を提案を目指した。
ちなみに直接請求とは、首長や議員のリコール、条例提案を市民の一定の署名数をもって実現させられるという制度である。余り馴染みがないが民主主義の中にあって極めて重要な国民の権利行使のひとつである。これを活用し、京都市民50分の1の署名を悪戦苦闘の末、一か月で集め、議会に提出した。
村山の提案で京都市の火災件数が爆増したことがある。京都市は火災件数が全国一少なく、全国的に注目をされていたが、それに違和感を覚えた村山は、独自の調査を行い、京都市の火災件数は嘘だと見抜く。
通常火災はボヤを含めてカウントしなければならないが、京都市は軽微な火事については無損事故という独自のカウント方式を取っており、その結果火災件数が異常に少ないということが発覚。議会で無損事故の現場写真を提示し「これは火事ではないのか」と追及するも、市長は「判断付かない」と塩対応。業を煮やした村山は霞が関にある消防庁へ乗り込んだ。
京都党は将来予測から政策を紡ぐ。
2013年当時だれも見向きのしなかった人口減少社会の到来に向けた対策の強化を掲げ、外国人観光客が数十万人だった当時から外国人観光客500万人を掲げるなどかなり先駆的な提案を続けていた。
その中でもとりわけ、市の財政悪化を問題視し、財政再建を掲げていた。当時誰も問題にしなかった公債償還基金(借金返済用の原資)の取り崩しなども京都党が提起し、市全体で大きな問題となった。
様々な財政再建策を提言し、危機的状況を説明するも、長年門川市長は村山を「縮み志向」と称し取り合わなかったが、結局コロナ禍に突入し市長自ら財政破綻寸前宣言を表明するに至る。
京都府も京都市同様に財政状況は悪いが、そこまでニュースになっていないのは議会で問題提起されていないからと言われている。
児童養護施設の施設長が高校生に対してわいせつ行為を行い逮捕された事件が発生。当初、京都市は児童相談所が把握できておらず遺憾との表明を発表したが、村山の裏付け調査により嘘だと判明。
相談所内の内部告発を受け、再三に渡り被害児童の保護者よりSOSが発されていたにもかからわず、児童相談所が対応していなかったことが発覚。当時の記録簿を元に議会で追求し、大きな問題に発展。しかし、京都市は詫びるどころか、公務員の守秘義務規定を持ち出し、内部告発者探しを始めるという暴挙に。
当時の秘書は元保健福祉局だったこともあり、秘書と関係のあった職員をはじめ続々と事情聴取を行った。公益通報制度の趣旨を鑑みると、絶対にやってはならない内部告発者探しに、問題は全国ニュースへと飛び火した。
その後、内部告発をした職員を特定し、懲戒処分したため、裁判に発展。当然のことながら京都市は敗訴する。信じられない恐ろしいことが起きた事件であった。
村山率いる京都党の結党理念のひとつに「京都を再び都に」というものがある。東京を首都、京都を文化首都とし、2つの首都で国を引っ張る両都制を提唱している。
平成天皇ご退位に際し、上皇陛下の終の棲家を是非京都にという思いから、「上皇陛下のお帰りを歓迎」という署名活動を京都最後の公家・冷泉家冷泉公美子氏や陛下の遠戚である池坊保子氏等と共に実施。皇室の危機管理や京都御所の活用などを踏まえ、一万筆以上の署名を集める。
内閣府に署名を提出するも、その後大きな流れにならず、活動は実っていないものの、多くの市民が未だに皇室と京都の関りに対し強い思いを持ち続けていることが証明されたことは大きかったと思う。
日本で3番目の宿泊税導入。オーバーツーリズムの到来を早々に予言し、宿泊税を導入するべく奔走。
当時は国内事例が東京都しかなく研究材料が少なかった為、単身、宿泊税先進国のイタリアに渡航。ミラノを中心に宿泊税の調査を決行し、課題と導入に向けた取り組みを学ぶ。ミラノの成功とローマの失敗、星に応じた税の変動などを持ち帰り議会で提案。
当初否定的だった京都市だが、徐々にエンジンがかかり、導入へ。とりわけ、価格に応じ三段階に税を設定したことで市の予想を上回る大幅な税収確保に成功。結果、当初3~4億円にしかならないと言われた宿泊税が40億円を超え、その成功体験が2025年からの一万円という日本一高い宿泊税へ発展している。
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