(写真:世界一高い「ブルジュ・ハリファ」829メートル)
ドバイと言えば、世界の富裕層を虜にする近未来都市だ。
一般的にはオイルマネーの流入とバブルによって建設ラッシュが続いたが、ドバイ・ショック以降、その栄華は終わったかのように伝えられている。しかし、実態は全く違う。
そもそもドバイは石油がほとんど出ない。1980年当時は人口28万人の砂漠のオアシス、更に10年遡ると、電気も水道もままならない生活を送っていた。ましてや観光資源もない。同じアラブ首長国連邦のアブダビ首長国の経済援助によって成り立っていた貧しい都市だった。
(写真:延々と開発が続くドバイ市内)
その点、国に依存する日本の地方都市によく似ている。しかし、そのドバイが今や人口200万、世界屈指の金融都市に成長を遂げた。そればかりか、公務員の初任給は50万円、月収48万円以下は国から生活援助が行われ、国民は全て税金なし、教育・医療は無料という超高福祉国家だ。この数十年、一体ドバイでは何が起こってきたのだろうか。その答えは先見性のある政治力だった。
(写真:世界初7ツ星ホテル「ブルジュ・アル・アラブ」)
石油ラッシュに沸いた1970年代、ドバイでも一瞬石油が産出されたが、当時の国王はこのときから脱石油を掲げ、ドバイを商都とすることを宣言。石油の利益を全てインフラ整備に費やし、国際的な港を整備した。その後も、世界一の空港を整備するなど、ヒト・モノの中継地として街を存続させることを徹底的に行う。結果、アジア圏を除くとドバイ港のコンテナ取り扱いは今でも世界一、ドバイ国際空港も今年、国際旅客数は世界一に躍り出た。拠点戦略は物流に限らず、企業集積へと拡大、80年代には、経済特区などを展開、外国企業誘致や見本市・展示会の誘致に国を挙げて乗り出した。日本では企業誘致が叫ばれる遥か前の時代の話だ。企業誘致が進み、中東、北アフリカ市場の中核となり、見事に中継都市として成功を収めたのである。
(写真:世界最大の人工島「ザ・パーム・ジュメイラ」)
しかし、ドバイの成長はまだまだ加速度的に進む。
後継者のモハメド首長は「ドバイを世界地図に載せる」という掛け声の下、パリ、ニューヨークと並ぶ国際都市を目指して観光戦略を展開した。エミレーツ航空の創設、観光商務局の設置、世界的ホテルの誘致、観光資源の創出と次々に政策を展開する。
日本の地方都市でも観光資源の掘り起こしに皆躍起になっているが、モハメド首長の発想はそれらとは全く異なる。「コロッセオも凱旋門も自由の女神も人が作ったもの。資源がないなら作ればいい。」と言い張る。そうして、次々と世界一を作り続けた。
(写真:賞金額世界最高額のドバイマラソンと競馬ドバイカップ)
世界初の7つ星ホテル「ブルジュ・アル・アラブ」、世界一高い建造物「ブルジュ・ハリファ」、世界最大の人工島「ザ・パーム・ジュメイラ」、世界最大の噴水ショー「ドバイ・ファウンテン」などなど枚挙にいとまがない。その戦略は見事に成功しており、829メートルの高さを誇る「ブルジュ・ハリファ」には年間6000万人の観光客が訪れる(ちなみに京都は5000万人)。投機資金が集まり、観光客が集まる。ドバイ・ショック以後、建設は一時の勢いはないが、中継機能や観光は過去最高を記録し続けている。今も、外国人が落とす手数料や現地人に払われるライセンス料のお陰で自国民は裕福な生活を送っている。
政治が果たす役割を再認識するとともに、都市再生の大きなヒントがこの街には転がっている。
2013年10月15日のAl Bayan 紙(アラブ首長国連邦)にインタビュー記事が掲載されました。
「日本の市会議員、ドバイの”世界一”について」